風の島 菅島(すがしま)みどころ
菅島灯台
「菅島付近の海面は数多くの岩礁があり、古くから、船人を悩まし、いくつもの人命が海の藻屑と消え、当時の船乗りは「鬼ヶ埼」と呼んで恐れていたそうです。 江戸幕府が成立して人口は年々増加し、そのため食糧が不足し始めたため、江戸幕府は川村瑞賢の説をとり、1670年、現在の山形県酒田市から日本海を経由し、下関から瀬戸内海に入って大阪へ、さらに紀伊半島をまわって江戸という、いわゆる西回り航路が開発され、東北の米を江戸へ運ぶことになりました。しかし、菅島周辺の海では難破する船が続出したので、ここに「かがり火」を設けて目標としました。これが菅島灯台のはじめです。初期には露天で火を燃やしていましたが、その後風雨を避けるため「かがり火小屋」を建て、任命された専門の者が火を守ったという話です。菅島灯台は明治6年7月1日に点灯しました。英国人技師、リチャードヘンリーブラントンが在日期間の末に設計、建設した灯台で、国産の白色レンガを使っており、近く安乗崎灯台とともに静岡県御前崎から和歌山県樫野崎間では最も古い灯台で、灯台竣工式には時の政府高官、西郷隆盛以下が多数出席したそうです。建築費は当時のお金で4,490円でした。戦後になり、昭和29年4月14日、自動点滅器が取り付けられ従来の不動灯から変更されました。昭和27年3月には停電にそなえ発電機が設備され、昭和28年8月1日より鳥羽航行路標識事務所の管下に入り、1名の職員が駐在していましたが、昭和34年4月に太陽光線を利用した自動点灯スイッチが取り付けられ無人の灯台になりました。
菅島神社
明治6年應神天皇を祭神とする菅島神社は村社として定められ、同年12月5日に境内社の八王子社、天王社、土の宮社など村内の各社を合祀して菅島神社となりました。天保11年(1840)と嘉永3年(1850年)の棟札が残されています。境内にある祠には綿に包まれて姿の見えない神様が祀られており、島に子供が生まれるとお宮参りに訪れ薄い真綿をかけて健やかな成長を祈願します。
白髭神社
白髭大明神を祀っている小さな神社です。 毎年七月に行われるれるしろんご祭りでは、 海女が最初に獲ったつがいの鮑が奉納されます。
冷泉寺
冷泉寺は曹洞宗のお寺で本尊に釈迦三尊像を祀っています。お寺が所蔵する鰐口は三重県下最古のもので、鳥羽市に指定有形文化財として昭和46年8月18日に指定されており、興国5年(1344年)の作られたといわれています。鰐口とは仏閣の堂前に太い綱とともにつるしてある円形の大きな鈴のことです。中空で下方に横長の裂け目があり、参詣者が打ち鳴らします。鰐口の銘によると、今から660年ほど前、矢田部信行という人が42歳の厄除けに伊豆の三島神社へ奉納したものであり、作者は沙弥西念と彫られています。詳しいことは不明ですが、三島神社は伊豆にあり、どういう訳か菅島に流れ着いたものとみられます。
風の島 菅島(すがしま)のお祭り
しろんご祭り
しろんご祭りとは伊勢志摩を代表する海女の祭りで、菅島古くからで「しろんごさん」と呼ばれる島の守護神白髭大明神をお祭りし、大漁・豊漁と海上安全を祈願するための祭りです。この祭りがおこなわれる「白浜」は一年を通じて禁漁区であり、この祭りの日のみ漁が許されます。ほら貝の合図で島の海女たちが一斉に潜り、雌雄一対の鮑をとるために競いあいます。 一番最初にとられたつがいの鮑が白髭神社に奉納されます。この鮑を「まねき鮑」と良い、一番初めに「まねき鮑を」取った海女が、一年間海女頭として崇められ、豊漁が約束されると伝えれています。 沖合では鳥羽磯部漁業協同組合菅島支所によるによる奉祝会場パレードが行われ、浜辺では婦人会による踊りや、物販販売などが行われます。 また、祭り終了後、大漁と安全を願う、この島独特の縁起物である島のご老人がつくった「垂れ柳」の販売などもあります。 しろんご祭りは、昭和46年8月18日に鳥羽市の指定無形民俗文化財に指定され、また平成8年には環境省が選定した「日本の音風景100選」に選ばれています。)
祝い船
旧正月の1月11日に町中の漁船を持つ船主の海上安全を祝う行事です。この日は、1年365日の潮の初めにあたり、白髭神社の初の祭典の日にもあたります。 船主は、早朝に自分の船へ行き洗米と御酒、さかな等と角餅を船先に供えて1年の海上安全を祈願します。 大型の船には、勇壮な大漁旗が掲げられ、漁港内は様々な色の旗で賑わいます。 船主がお供えをした後は、船先で船主が用意した餅をはじめ、食料品などを集まった町民の皆さんにまくと、子どもからお年寄りまで、老若男女を問わずに賑わいが絶頂になります。 特に午前6時30分頃から7時30分頃までの1時間が絶頂期で、漁港のあちらこちらで、餅拾いに町民が漁港を駆けまわります。
菅島 弓引き神事
会場では、氏子総代によって標的がとりつけられた神職役人元老が正装して待機し、到着した弓大夫は的の見分を行います。 次にだしと呼ばれる3人の奉仕者が現れ、芝居を行い、本年の大漁を祝います。この時、接待する席から早く始めるようにという挨拶があって、古式にのって弓矢の行事が始められます。 弓大将、弓子の6人が3人づつ3回、弓をひき、うった矢は矢取りの子がひろい、「山のにぎわい、かいのうござる、矢取り、ほめてください」と大声でさけびます。 矢取りの子は、着物にたすきをつけ、それぞれ3人の幼児の子のおでこに大、漁、吉の文字を書き、顔を化粧して奉仕するが足袋をはくことは禁止されています。 矢をうち終わると的の紙をはぎ、その紙を皆で分けて、それぞれの家庭の神だなへ供えます。 弓大夫以下の弓子全員は、氏神様にお参りして弓祭り行事が無事終了したとお礼を述べて弓祭りを終えます。
じんかん船
お盆行事の一つ。精霊船を作り沖へ送り出します。当日はこの船を中心に百万遍と呼ばれる大念珠を繰り、終わると送り船を先頭にお経を唱えながら金と太鼓の囃子で村を一巡します。町の人々は神におはぎを包み家族の顔や都合の悪いところをすり悪霊を一緒に精霊船に送りこみ海岸まで見送ります。この時子供たちがほら貝を吹き鳴らし盛大に見送っていますが、近年はほら貝を吹く子どもも少なくなってきています。